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20180224 玄倉川奇譚・・「白装束のふたり・1」 [丹沢奇譚]


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丹澤には多くの逸話や不思議な話があります
「オバケ沢の由来」や「白装束のふたり」の話を
御存知の方も多いのではないかと思います

今回は林道工事の作業員に広まった「白装束のふたり」
についての話です




時は昭和20年代終わりから30年代初めの頃と思われます
塔ノ嶽、尊佛小屋に宿泊した20代と思われる二人の若い女性
白い帽子に白いブラウス、白いズボンと白足袋に草鞋履き
そのいでたちはまさしく白装束
翌朝ふたりは玄倉川を下るために尊佛ノ土平に向けて旅立ちますが
ユーシンロッジの下流、玄倉川を渡渉しようとして足を滑らせ
流されてしまったそうです

その遭難後暫く経ってから、林道工事関係者の間で幽霊騒ぎが
広まったそうです

林道工事のトラック運転手達が、白装束でずぶ濡れの女性二人に
「おじさん乗せてってよ」と哀願され「良いよ!!」と声を掛けた途端
姿が消えた・・・
多くの運転手がその様な経験したそうです


そんな幽霊話が広まって暫く後
二人の慰霊碑を現場付近に建立し供養を行った結果
幽霊話は収まった、と言う事です




以上が「白装束の二人」のあらましですが
何分古い話なので当時の記憶もはっきりしない様です
遭難の経緯や遭難の場所についても諸説あり辻褄が合わない点も
有りますが、なんと言っても最大の謎は
「当時建立された筈の慰霊碑が見つかっていない?」と言う事です
慰霊碑が建立されたのは事実の様で証言も残っています
一体慰霊碑は何処に有るのでしょうか?



この話に以前から興味を持ち、「幻の慰霊碑」を探して周辺を
調査しているイガイガ先輩から共同調査の依頼を受けました

残されたヒントは
「第七隧道付近、林道工事中の傍の小高い丘の上」「人の背丈ほど」
との証言だけです

「白装束の二人」の慰霊碑は一体何処に有るのでしょうか・・・?



M氏としても「山神・雨山径路の変貌や諸子平(諸士平)
ユーシンロッジの成り立ち」を休泊所の変貌を絡めてもう一度探って
みたいと思っていた所だったのです、申し出は好都合
早速検討、現地に赴き調査を進めました






寄木大橋Pから出発し檜岳を越え、石碑尾根を下って山神径路合流
迄は整備された仕事道で快適でした
ところが「いや~拍子抜けですね!!」なんて軽口を叩いていたのは
此処まででした



【 整備された仕事道を登る 】
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【 稜線を乗越、痩せ尾根を下る 】
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【 玄倉の景色が広がります 】
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【 予想に反して整備された径路で山神経路へ 】
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【 石碑に到着 】
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【 石碑尾根 】
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【 謎の石碑 】
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山神径路を歩くのは何年振りでしょうか?
以前の記憶ではこの先危険箇所は古い桟道の残骸が残るザレ場ぐらい・・
と思っていたのは大間違いでした
以前よりも更に道は崩壊し危険を極めます
2箇所ほど冷や汗を掻きながらも何とか前進し玄倉林道に辿り着きました
山神径路は既に一般人が歩ける許容範囲を超えた危険な道に
変わってしまった様です




【 懐かしい径路ですが 】
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【 やばいっすよ!! 】
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【 山神峠を望む 】
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【 最初の2~3歩が危ない 】
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一旦第七隧道まで戻り調査開始です、周囲を眺めながら
林道を登ります

現在は廃道とされ荒廃してしまいましたが山神径路は
古くから使われている由緒正しき古道です
昭和初期の山神径路は雨山沢出合付近で雨山径路と合流し
玄倉川を渡渉、諸子平を経てユーシンロッジに向かいます
古い地図には渡渉地点に橋のマークもしっかりと描かれていますが
当時は簡易な吊橋が駆けられていたのではと想像されます

現在の山神径路入口は第八隧道ユーシン側出口先ですが
その奥の斜面の高みを眺めると古い石積が斜面を伝い
雨山径路方面に続いているのが分かります
丹沢の奥地、ユーシンや熊木沢、箒杉沢に入るには
鍋割峠やオガラ沢乗越、雨山峠越えとともに
山神峠越えの山神径路は重要なルートだった事でしょう

慰霊碑もこの径路沿いに残っているのではないかと予想し
踏痕と痕跡を辿りますが残念ながら慰霊碑を見付け出す事は
出来ませんでした、再度捜索探索ポイント変えて出直しです


諸子平、休泊所、製板所などの遺構は数度襲われた水害で
流されてしまい多くは残っていませんが
いくつかの遺構を見付ける事が出来たのは収穫でした
かつての諸子平の繁栄、休泊所の面影が偲ばれます




【 林道工事飯場の竈であろうか? 】
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【 八代沢出合左岸の遺構・・つり橋の基台か? 】
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【 残された送水管は集落への送水か?製板工場へ? 】
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【 径路痕が残っている 】
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【 諸子平休泊所の土台石積か? 】
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【 ユーシンの山神様 】
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【 雨山径路も久しぶりです 】
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【 道標は壊さない様にしましょうね!! 】
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家に帰り、この文章を記録しながら改めて慰霊碑の位置を
考え直しているのですが
やはり、同角沢出合付近から第八隧道迄の林道沿いなのかな?
との思いも湧いてきています、見落としている所も多そうですし
まだまだこの周辺に通わなければなりませんね

         ・・・②へ続く・・・かも?


山神径路の変貌


※ 【大日本帝国陸地測量部 明治二十一年測量二十五年発行1/20000塔嶽】
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この地図に拠れば当時の山神径路の終点(玄倉川に下る所)は
逆木丸(P791)東鞍部から北側の小尾根沿いに現在の第七隧道
ユーシン側出口付近です
実は今回、山神径路から玄倉林道までは従来のコースで行こうと
考えていたのですが、途中イガイガさんから「こっちの方が早いよ」
と言われて下って行った道がどうもこの旧道らしいのです
全くノーマークで帰って来てから気がつきました
ある記録によれば山神径路が玄倉川に降りた場所が逆木と
呼ばれていたとあります
径路破線は尾根の突端で消えていますが、諸子平を経て
尊仏様迄続いていたのだろうと考えられます(尊仏詣の径路)





※【大日本帝国陸地測量部 昭和四年測量七年発行1/25000中川】
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こちらの地図では山神径路は雨山径路と合流して玄倉側川を渡渉
八代沢出合左岸から車沢を渡り諸子平を経てユーシンに向かっています
【橋】マークも記載されているので、小規模な吊橋の様なものが
掛けられていたと考えられます





※【国土地理院 昭和四年測量 昭和二十八年修正測量
      昭和三十二年発行1/25000中川】
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山神径路、雨山径路の合流は変化ありませんがその後
玄倉川を渡渉せず、左岸からユーシンロッジに辿ります
この時点(昭和三十二年当時)では諸子平の集落は
豪雨被害で壊滅していたので地図上に痕跡は在りません




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